上州からの山旅

旅する巨人宮本常一に憧れながらも無駄歩きを続け、馬齢を重ねる閑人noyamaの覚書です

甲州道中四十四次を歩く

甲州道中四十四次を歩


 甲州街道は当初、甲州海道と呼ばれたが、海を通っていないという理由から正徳六年(1761)幕府道中奉行は甲州道中と定めた。日本橋から八王子・甲府を経て下諏訪で中山道に合流する約220キロ(53里余)の街道で、現在の国道20号線にほぼ相当する道。
 甲州道中は江戸城に危難が及んだ際、江戸城半蔵門から甲州道中に脱出し、甲府城に入り、富士川の舟で駿府に至る路とした。徳川幕府にとっては戦略上重要な街道で、参勤交代の大名は高島、高遠、飯田の三藩だけに限られ、他は幕府に献上される「お茶壷道中」だけで、「宇治の茶」は中山道を通り下諏訪宿から甲州道中に入った。


 


 1日目:江戸日本橋 ~4国領宿  (歩行距離26.8km) 2024.10.11
 2日目:国領宿 ~ 11八王子宿  (歩行距離25.2km) 2024.10.12                       
 3日目:八王子宿 ~15与瀬宿 (歩行距離20.6km) 2025.04.24
 4日目:与瀬宿~26大月宿(歩行距離34.5km) 2025.04.25
 5日目:大月宿~32阿弥陀海道宿(歩行距離13.9km) 2025.04.25

 6日目:阿弥陀宿~36勝沼宿(歩行距離17.3km) 2025.06.12
 7日目:勝沼宿~39甲府柳町宿~塩崎駅(歩行距離28.7km) 2025.06.13
 8日目:塩崎駅~41台ケ原宿(歩行距離24.1km) 2025.06.14

 9日目:台ケ原宿~43蔦木宿~すずらんの里駅(歩行距離21.2km) 2025.06.15

10日目:すずらんの里駅~45上諏訪宿~下諏訪宿(歩行距離25.6km) 2025.07.04

 累計歩行距離 237.9km


 


*参考
参考1:「ちゃんと歩ける甲州街道 甲州道中四十四次」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡:GPSログがとても参考になります
参考4:きままに歩く現地解説版など詳細な写真が豊富
参考5:街道歩き旅写真と文章がコンパクトにまとまり分かりやすい
参考6:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考7:レファレンス協同データベース(レファ協)国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、レファレンス(調べものの相談)のデータベース



*用 語
【距 離】1間≒1.818m 1町=60間≒109m 1里=36町≒3.927km
【立場(たてば)】
 江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設。次の宿場町が遠い場合はその途中に、また、峠のような難所がある場合はその難所に、休憩施設として設けられたもの。茶屋や売店が設けられていた。立場が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは間の宿(あいのしゅく)。杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれている。
【高札場(こうさつば)】
 幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所

【「問屋場」(といやば)】
 人馬の継立業務(幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際 に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶ)、飛脚業務(幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける)

 【助郷(すけごう)】
諸街道の宿場の人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役。村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。 無賃、または低賃銭の伝馬役などの負担があり、その不足分を補填のため助郷村の財政が窮乏し、「幕府や藩に窮状を訴えて減免を願い、宿駅と助郷村の紛争も相次いだ
【桝形(ますがた)】
 宿場町の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたもの

【名号(みょうごう)】
 名をもって号(さけ)ぶという意味。「六字名号」・「九字名号」・「十字名号」などがある。六字名号は南無阿弥陀仏の六字
【回国六部】
  日本廻国大乗妙典六十六部経聖(ひじり)。略称は六部・廻国。「法華経」66部を書写し,全国66州(壱岐国・対馬国を除く)の霊場に1部ずつ奉納する廻国の修行者,またその書写した経典。江戸時代には経典でなく納経札が奉納された。各国の一宮や国分寺に納めることが多いが,必ずしも一定せず巡路も決まっていない。六十六部に身をやつした物乞いも多く,行き倒れのあった場所には六部塚が作られた。(山川 日本史小辞典 改訂新版 )
 【庚申塔】
 庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。
庚申待(庚申講)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜[1]寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や馬頭観音や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。
庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった。